台湾歴史散歩(準備編①)
短期留学を控え日本統治時代の台中歴史散歩メモ

台中省城地図(1895年)
19世紀になると西洋列強の東洋進出が激しくなり、アヘン戦争、アロー号戦争など軍事行動が続いた。清朝は防備を固めるため福建省の一部だった台湾を省として格上げし、中部台湾に城壁で囲まれた省城を造ることになった。当時の台中は大部分が水田や沼地で、人口は1452人(片倉佳史さんの「台湾 日本統治時代の50年」による)、ほぼ未開発だった。資金難などから省城建設計画は早々に断念、わずかに北門(台中公園近く)、小北門(台中医院)、西門(国家漫画博物館近く)だけが造られた。
日本統治が始まると、清代の図と比べるとやや北寄りに台中の中心街が出来た。碁盤の目状の計画都市として中部台湾の中心地として発展、1942年(昭和17年)の人口は10万人を超えている。


碁盤の目状ではあるが、45度傾いている。西門近くから北門近くまでは真っ直ぐの明治町通→大正町通、台中公園内にある台中神社の大鳥居が遠くからでも見えた。この通りは台中神社の表参道となっていた。