ちょっと台湾で暮らしてみる

2023年12月から台中短期留学。主にB級グルメ&朝食

中国語を習い始めた頃

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写真は、北京の天安門広場
1949年に毛沢東が人民中国成立を宣言した天安門の楼上から、2年前に撮った。


10日ぶりのポストになります。

「ちょっと台湾で暮らしてみる」も、書き込みを始めて、ちょうど半年が過ぎました。台湾に行けなくなっているので、少し間があくと、書き出すきっかけがない。今は専らブログ「ちょっと中国語を勉強してみる」で、中国語の勉強記録を書いています。

テーマとはかけ離れてしまいますが、私の中国や台湾との関わりや、中国語の勉強について、これから少し書いて行こうと思います。


もう40年近く前の事。

そのころ、「史記」や「三国志」など、中国の歴史にはまっており、夢は、中国の歴史の舞台を訪ねる事。そこで、中国語の勉強を始めてみようと、NHKテレビの中国講座のテキストを買って来ました。

3日坊主どころか、一度もテレビを見る事なく、テキストは放置されていました。ところが、放置テキストを使って、女房が中国語の勉強を始めていた。

2年ほど経過して、初めて中国観光に行く事になった。女房は勉強の成果、私は念願の万里の長城故宮が目的だ。飛行機はイラン航空。5時間遅れ😅。成田空港で、いろんな国の飛行機の発着を楽しめました。

スチュワーデスさん(もう死語かな)は全員、目と手足の先だけが見える、真っ黒のアバヤを着ていた。隣の席はイラン人男性。英語の単語を並べて、話をした。飛行機で出されるナイフとフォークは記念に持って帰れと言われたので、我が家にはイラン航空のものが2セットあり、今でも使っている。

この時、お互いに持っていた本にサインをし合い、右から左に文字を書くので、びっくりした。負けじと、私は縦書きでサインをした。こんなちょっとした事を、なぜか覚えている。

さて、中国。ちょうど10月1日の国慶節を北京で迎えた。天安門の前には民衆、軍人さんたちが大勢、集まっていた。統制された人たちではなく、ほんとに楽しんでいる感じがした。鄧小平の時代で、貧しくても希望に溢れた、自由経済の黎明期だ。

万里の長城、明の十三陵は観光バスを使った。料金は7元、日本円にすると280円。これで、8時間の観光を楽しめた。当時の中国人の月給は、たぶん多くの人が4000円だった。

遠くに長城が見え始め、本当に中国にやってきたんだなと感じた。

当時の万里の長城「八達嶺」は、もちろん観光客はいるが、今とは大違い。どこまでも続く規模の大きさを垣間見、長城が急坂になっているのに驚いた。2000年以上にわたる漢民族遊牧民族の戦いに思いを馳せた。

「明の十三陵」見物は入場料が3元、120円。隣に座っていた広州から遊びに来たという娘さんたちが、バスを降りようとしないので、女房が「どうして行かないの?」と聞いたら、「お金がない」。

まだまだ改革開放を進め出したばかりの中国、庶民の生活水準の一端に触れた。彼女たちは北京に遊びに来ることができるのだから、平均的な生活以上だったとは思う。

盧溝橋には、タクシーで行った。小学校低学年の子どもたちが、先生から説明を受けていた。私は、まだ中国語を習っていなかったが、先生が「日本」と言いながら、銃弾の跡を説明しているのは分かった。ここから日中戦争が始まったくらいの知識は持っていた。

盧溝橋は美しい橋だが、戦争の傷跡は、しっかりと残していた。

この旅行で刺激を受け、日本に帰って、すぐに週2回の中国語教室に通い出した。

半年が過ぎ、何とかカタコトで話す事ができるようになり、会社の同僚と3泊4日で台湾に遊びに行く事になった。

一日だけ、単独行動をしようという事で、一人で台南に行ってきた。

今とは違い、情報量が少ない。台南では赤嵌楼を見て、度小月の担仔麺を食べたことだけを覚えている。

これが初めての台湾旅行。2回目の旅行では、金門島に渡った。いま調べてみると、台湾での戒厳令が解除されて間もない頃だ。

そんな知識もない頃だった。

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